使徒言行録 14章8-20節
高松教会 村上貴志
少し前からの若者文化で、気になる言葉が有ります。
「神だ!」
驚き・尊敬の言葉として語っているのでしょうか?
八百万の神など、とうに超えてます。
神さまを造りだしたり、見出したりする事。
多神教の文化でもあります。
しかし、そのような思いは、パウロの時代にも、存在しました。
パウロが、リストラを訪問した時。
当時の治療技術では、どうしようもなく、自然治癒も見込めないような足の不自由な人を、癒しました。
その人が、パウロの先に希望の光「イエス・キリストの救い」を、真剣に見つめたからです。
しかし、周りの人たちは受け入れる事が出来ない。
信じることが出来ない。
人の業として、理解できない。
だから、パウロたちの業は、ギリシャ神話の信仰に、神の御業だと思ったのです。
ギリシャ神殿の祭司たちは、「知られざる神」の発見に沸き立ちます。
パウロとバルナバを、生きる偶像神としてしまうのです。
「生きている偶像を造りだす」危うい思いです。
若者が叫ぶ「神」と同じでしょうか?
しかし、私たちの思いの中でも、
「誰々牧師は、…。あの人の説教録音を聞かなければ、…。
あの人の説教集を、読まねば、…。
語られた言葉に、耳を傾けなければ、…。
信仰の先輩の誰々さんは、…。」 …。
ほめたたえる事も有るのです。
それは、…。 偶像、…。 な 、 の 、 で 、 は 、 …。
「いや、それは、尊敬だから、…」(反論します)
その思いを、若者たちは「神だ」と言っているのです。
気を付けなければ、私たちもいとも簡単に、人を神にしてしまっているのです。
人の思いの弱さでしょうか?
主を通さずに神さまに向かい合おうとする、不完全さでしょうか?
地上で、どんなに素晴らしい業が現されたとしても、人は、神では無いのです。