ヘブライ人への手紙 7章11~19節
高松教会 村上貴志
ユダヤ人が、信仰において神さまに求めたものとは、どのようなものであったのでしょう。
この手紙では、「メルキゼデクのような祭司であり王である相応しい人」を求めていたように記されています。
私たちも、この世での戦いから戦いから安らぎの場に帰った時には、「祝して下さる方」を、望んでいるのです。
「共にいてくださる神」を求めているのです。
感じられているでしょうか?
日々の歩みを終えた時の、神さまが共にいて下さる事の喜びを。
祈りをもって、会話し・報告し、導きの成果を伝えているでしょうか?
時に、御旨を忘れて歩みを進めてしまった事の過ちを、伝えているのでしょうか?
良いことだけを伝えるのではない。神さまから離れてしまった事をも。
良くない事は、伝えにくいです。隠しておきたいと思います。
しかし、神さまは全て御存知なのです。常に、私と共にいてくださっているから。
出エジプト3章「わたしはあなたの父の神である。(6節)わたしはある。わたしはあるという者だ(14節)」
私の前にも、いつも居られることを語って下さっているのです。
私の傍らでは無く、私の前に。 悔い改め。
どうすればできるのでしょうか。
「十戒・律法を守る事で、従うことで?」で、ですか?
古い掟。永続性は、有りません。
新しい掟、いつか、次のものが現れます。
信じ切る事が難しいです。
しかし、イエスさまのお働き。
「永遠の祭司・永遠の王・永遠の約束」。
神さまは目に見える形で、「信仰的に正しく導かれれる王としてのキリスト」と「相応しくない者たちを十字架からの甦りにおいて神さまとの間を執り成して下さる祭司としてのキリストの姿」を、見せて下さった。
この全てにおいて新しく、2000年経っても私たちの目の前に有る約束。 変わってしまう古い掟と異なり、これからも、変わる事の無い永遠の約束なのです。