ルカによる福音書 19章1~10節
香川豊島教会・香川直島伝道所 福田哲牧師
この箇所は、福音、よき訪れを端的に示しています。すくわれる側(ザアカイ)が上にあり、救う側(主イエス)が下にあるということだからです。私たちは救われるものが下にあり、救うものが上にあると考え、一生懸命努力して、精進して上に登っていけば、あるいは救われるかもしれないと思います。ここは全くそれと逆転しているのです。主イエス・キリストにおいて神は、上をご覧になりません。下をこそ、最も低い所をこそご覧になり、そればかりではなく、下に立って下から招く方として、私たちの全てを受け入れる。その姿がここに見られるのです。
人を受け入れるということ、これが愛であるならば、それはまずその人自身が受け入れられたものでなければならないのでしょう。逆から言えば、受け入れられたものは、人を本当に受け入れることのできる、そういう人間に変えられていくのだということでしょう。
ザアカイは、私から私たちへ、分かち合う、そういう人へと変えられた。つまり、失われたものから回復させられたのです。自分探しは、自分で見つかるものではありません。まことの愛によって受け入れられている時、自分探しの旅は終わるのです。そして、人々と共にという新しい旅へ出発することになるのです。
人間性を取り戻したザアカイに、主イエスは言われました。「今日、救いがこの家を訪れた。」救いが今日ザアカイを訪れたとは言いませんでした。一人の人が受け入れられるということは、個人に救いをもたらすに留まらず、その個人を含む社会や共同体、隣人にシェアリングするように愛は及んでいくということです。
下から招きたもう主イエスにあって、私たちも受け入れられて、そして共に受け入れあう共同体を形成すべく、今日、救いがこの家を訪れた。このことを反響させるために、私たちもこの世に生かされている。そのことを深く、重く覚えられるのです。