詩編96篇 1~13節
高松教会 村上貴志
本日は、ルターの宗教改革500年の記念礼拝。また、パイプオルガンの奉献礼拝の日でもあります。いくつもの区切りを迎えて、「新しい歌を主に向かって歌いたい」と、願っております。
詩編96篇には、歴代誌上16章・サムエル記下6章に記されている「ダビデが契約の箱をエルサレムに運んできた時に、神さまに対して献げた讃美」の一部分が記されています。ダビデは、心新たに都のエルサレムに、神さまの契約の箱を大きな喜びで迎え入れるのです。しかし、全ての喜びであったかと言うと、そうでは有りませんでした。中には、喜ばずに、冷ややかな目で見つめる者もいたのです。(サム下6章後半のミカルのように)
「共に喜べ」ここでは、そう私たちに教えているように思えます。身分・状況、信仰の長さ・熱心さに関わらず、「今、神さまが共にいてくださる喜びを、共に感じ、共に喜び、共に讃美しよう!」と、呼びかけて来るのです。神さまの恵みや導き、平和と平安、救いと祝福。それらを、知らない人たちも。今日、初めて、神さまの前に足を進めた人でも。
頼るべきは、聖書の主以外おられないのです。神さまは、「知らない故に、当てのない信仰を持ち続け、嘆き悲しむ人々」の事をお見捨てになられる事は有りません。まことの信仰の前に「今。共に立てた事」を、喜ばれるのです。熱心な者だけでは無く、思いの異なっていた者であれ、異教の信仰に仕えていた者であれ、神さまから離れてしまった「人の罪」を、イエス・キリストを通して赦してくださり、全ての人たちを喜びの御許へと招いて下さるのです。それを知る人たちは、あらゆる人と共に喜びの供え物を捧げます。贖宥状(免罪符)ではなく、あらゆる人と共に捧げる感謝の讃美を。その声が集まった時、轟くような音(神さまの喜びの声)となるのです。