ヨハネによる福音書19章31~42節
高松教会 村上貴志
安息日が明けた日。
直ちにイエスさまの姿を確認しに行く女性の姿が記されています。
ヨハネの教会は、「この女性が、主の姿を求めて、切に求めて、行動した」と、伝えるのです。
この女性は、ルカによる福音書8章によると、7つの悪霊を追い出して病気を癒していただいた者であると記されています。
そして、主の伝道の旅に同行したのです。
イエスさまは、心の中にあった重荷を取り除いて下さいました。
「主に変えられて共にいる。傍らで聞き、共に祈り、恵みと祝福に与る。喜びの生活。」彼女にとってそれが、日常の全てとなったのです。
この恵みと祝福の世界へと移されたマリアにとって、彼女の喜びは、「イエスさまが十字架に架かられる事によって」もはや、適わない事となってしまったのです。
彼女は、ペトロにその事を伝えます。
彼も、「知らない」という言葉によって、主を見失っておりました。
主と共にある喜びを得る事が、もはや適わなくなった二人に、神さまは、イエスさまは、新しい導きを与えられます。
この時、救いを必要としている小さくされた者を、主は憐れまれたのです。
彼は、墓の中を確認します。
やはり、そこには、イエスさまの姿が有りませんでした。
「絶望の確認」 自らの罪に傷つき慰めが最も必要とされたペトロには、救いは現れないのでしょうか?
そこには、布だけが残されていた。それは、誰かが持ち去ったという事では無いという証拠でした。
イエスさまは、まことに甦られた。
「見て、信じた」イエスさまがおられない墓を、「見て、信じた」
トマスへの言葉。
「見ないのに信じる人は、幸いである」平安の中には、常に「しるし」が有ります。
しかし、絶望と思える中にも、信じる者には「見て、信じる」しるしが、与えられるのです。
詩編16:10-11に記されているように。