ヨハネによる福音書19章16b~30節
高松教会 村上貴志
イエスさまは、「成し遂げられた」と語られて、地上での公生涯を終えられました。
「成し遂げられた」と言う言葉は、「完成した」という意味です。
この御言葉は、神さまに対する報告の言葉で有りました。
イエスさまは、神の独り子として、神に使命を託された方として、神が約束された通りその愛された民のために、十字架の上に上げられたのです。
それは、個人の業では無く、神の御業でありました。
十字架への道は、ユダヤ人やローマ総督を中心にして進んでいきます。
イエスさまの歩みは、他者の手に委ねられているのです。
それは、この業が、旧約聖書の世界に基づく真の救いの業だからなのです。
イエスさまは、イザヤ書53章で預言された通りの、「苦難の僕」としての御姿で、歩まれたのです。
その「苦しみ」。
それを、知る者にとっては、「悔い改めの備え」をもたらすものなのです。
「ユダヤ人の王」この高札は、全ての神の民に知らされました。
それは、聖書の世界とは無関係の「あなたのためにも」と言う事でありました。
認めないものたちに対し、ピラトは、これが真理であると宣言します。
両隣に大罪人が(イザヤ53:11)。衣装が分けられる(詩編22:19)。渇く(詩69:22、詩42:2、詩22:16)。記された言葉が、成就するのです。
イエスさまを貶めようとする罪の思いは、神の約束の成就へと変えられたのです。
それが、キリストの贖いの業なのです。
そして、母マリア(信じる者)に、新しい家族を。
信仰を持って共に祈り合うまことの平安を、与えたのです。
全ての事を整えられて、イエスさまは、救いの業を完成させられます。
神さまの約束は、与えられた。
イエスさまの奉仕は、終わり完成したのです。
世との戦いは終わりを告げたのです。
「息」霊を現す言葉です。
イエスさまは、その霊を父なる神さまの御手に委ねられたのです。