ルカによる福音書 13章1~9節
香川教会牧師 隅野 瞳
悲惨な出来事に遭う人が特に罪深いのではない。
全ての人に悔い改めが必要であることを知るようにと、主は語られました。
悔い改めとは、罪を自覚し、罪を悲しみ、主に向き直って生きる者となる事です。
主はたとえ話を語られました。
ぶどう園にいちじくの木が植えられましたが、3年間実りがありませんでした。
この実りは、真の悔い改めに伴う生き方の変化を表します。
主人である父なる神の忍耐にも関わらず、私たちは悔い改めようとしません。滅ぼされて当然の者です。
しかし園丁である主イエスは父なる神と私たちとの間に立ち、猶予を願ってくださいます。
このとりなしのおかげで、私たちはなお滅ぼされずに歩むことが許されているのです。
御子は私たちが滅びることをご自身の痛みとされます。
神の座を捨てて人となり、私たちの罪の裁きを負うために十字架に死なれました。
そして私たちに命を与えるために、復活されたのです。
悔い改めご自身を信じるすべての者に、罪の赦しと永遠の命を与えるためです。
御言葉を聴いたなら、今悔い改め、主を心の中心にお迎えしましょう。
私たちが神を無視し憎んでいた時から、御子は執り成していてくださいました(ルカ23:34)。
主の愛を受けて悔い改め、救いに導かれた私たちは、今度は主イエスと共にとりなします。
それは、いつ実がなるかわからない木を育てるようなものです。
反応がなく、あるいは拒否されて、この働きを続けることは、とても困難です。
ですから私達は「愛は忍耐づよい」(1コリ13:4)、愛そのものである主イエスに求めましょう。
「いつ実がなるかわからない」。しかしそれは、「私が知らないところで実っている」ことかもしれないのです。