ヨハネ書 12章1~11節
高松教会 村上貴志
過越しの祭り。
ヨハネによる福音書では、イエスさまの活動が大きく転機を迎えた時に、人の姿も、大きく変えられた事を伝えます。
ラザロは、死の世界からイエスさまによって、呼び戻されていました。
どのような罪のためであったのでしょうか?
いえ、主の栄光を現すために、主の栄光に参与するために、ラザロは、用いられたのです。
呼びかけによる赦しが与えられ、それに応え、墓から出て来た。
主の招きに応えた人への恵みと祝福が現されたのです。
応える。
主の招きに応えるには、この地上で手にしていると思っている物が、身にまとっている物が、天の国では、虚像であることを知る必要が有ったのかも知れません。
何も持たず、何も身にまとわない自身の姿を見つめた時。虚しさを感じ、悔い改めの思いを抱く。
その時、神さまの恵みがその手に握らされていると言う事と、キリストという衣を着せていただいている事に、気づくのかも知れません。
しかし、ユダは、そうで有りませんでした。
ユダの行いは、「まるで、悪い存在に導かれたような事だ」とも、思えます。
どうでしょうか?
この事に関して、シュラッターは、「悪魔の囁き・導き・誘い・意志であるような事を強調してはならない」と言います。
それは、実に「人間らしい」こと、悪魔の存在などなくとも、神さまから離れた人の思いは、そのようなものであるというのです。
それは、愛の無さ・神無き姿であると言うのです。
思いの中心に、神さまとイエスさまがいない時、人の言葉は、祈りでは無く、人間らしさのみを求める欲求となるのです。
その思いが、イエスさまの十字架の道が人と交わらない事に繋がるのです。
そうならないようにするには、「イエスさまに従い、共に歩みを進めていく。イエスさまの栄光に参与していく祈りとへりくだりの姿」を、私の歩みとしていくことが必要なのです。