ヨハネによる福音書 11章1~16節
高松教会 村上貴志
高松教会は、創立して109周年を迎えます。
伝道開始から約131年となります。
信仰の種が蒔かれ、大きく成長し実を成らせ、新たに種蒔く姿にまで成長させられたことを主に感謝いたします。
二人の姉妹は、兄の病の状況を、「何とかしていただきたい」と、イエスさまに願いました。
しかし、二日間も、同じ所に滞在されました。
その時、「ラザロは?」どのような事を、思っていたのでしょうか?
ラザロは、死に至るような重い病です。
当時は、自分や家族・先祖の罪の為だと思っていました。
「死が押し迫るような罪」深く考え、悩んだことでしょう。
ラザロは、何かできたのでしょうか?
罪から解放されるために。何もできなかったのです。
ラザロは、祈ったのでしょうか?
祈ったと思います。
しかし、「罪の世界で、再び、生きるために?」ですか?
「今度こそは、…」そのような事が、無理であることを、私たちは、知っています。
「今度も、…。罪の世に生きることとなるのです」
しかし、人は、祈るしか出来ないのです。
「私の力で、…。」どうにも出来ないのですから、「神さまに、お頼みするしかないのです。」
では、「頼んでなんとかなるのでしょうか?誰が、私を神さまから引き離そうとする存在を打ち破って、激しく戦って救い出してくださるのでしょうか?私の命の為に、その命を投げ出してくださる方がおられるのでしょうか?」自分の事ばかり考えてしまう者には、想像もつきません。
しかし、神さまから遣わされた神の御子であるイエスさまは、異なる思いを話されました。
「罪をまとった者にとっては、この世は、闇であろう。しかし、天地創造の時に、神さまは、昼と夜を創られた。光あれ。その言葉が、世には与えられている。」
イエスさまは、「この世の光」として、私たちの周りを明らかにして下さり進む道を示されるのです