ヨハネによる福音書 7章40~52節
高松教会 村上貴志
イエスさまの時代の人々は、まだ、十字架の救いを知りませんでした。
また、旧約聖書には、その救いの計画についておぼろげには記されていたのですが、はっきりとした形を見たわけでは有りませんでした。
神さまと人との間を執り成す十字架の業が現れていないとは、その様な事なのです。
神さまからの言葉が聞こえない時代。人々の心は、渇いていたのです。
神さまに祈りを捧げる人たちの心が渇いている時に、イエスさまは、「渇いている人はだれでも、わたしの所に来て飲みなさい。
私を信じる者は、聖書に書いてある通り、その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる」と語られたのです。
聖書。申命記18章には、「預言者を立てる約束」が記されています。
イザヤ書9章・ミカ書5章には、「ガリラヤではなく、ベツレヘムから与えられる」とあります。
しかし、ルカによる福音書1章には、「ベツレヘムでお生まれになる」ことが記されています。約束の通りで有る事を知らなかったのです。
期待を持つ人と、落胆する者に、分かれました。
呟きと怒り。それと、期待と信仰が交差していたのです。憤る者。
心の渇いた人たちの結論は、「神さまからの約束を知っていても、御旨に関しては無知」であったのかもしれません。
以前、イエスさまの所に行き、「どうしても」と、話をしたニコデモ(3章)は、イエスさまの話が救いに至る光の道であることを感じていました。
イスラエルに与えられた福音だと思い始めていました。そのニコデモは、気づくのです。
イエスさまの語られる事こそ、イスラエルの、いえ、全ての民の希望の喜びとなる。
しかし、世は、余りにも無理解で有った。いえ、無理解を装っている。
その様な人たちに、イエスさまは、命の水を与え、その思いを神さまへと導き、潤いを与えたのです。