ヨハネによる福音書 7章25~31節
高松教会 村上貴志
救い主メシアが、地上に来られる。人々の前に現れるとき。どのような形で、現れるのでしょうか?
ヨハネ20章やルカ24章のようかもしれません。 その時、私は主の姿に、気づくのでしょうか。
もしかすると、どれだけ長い間お話を聞いても、共にいても気づくことが、無いのかも知れません。
イエスさまの時代の人々は、救い主を待望していました。
大きな期待は、30歳の大工だとは思っていませんでした。
そのような民にイエスさまは、神の御子としてのしるしを、疑う人が信じる事ができるようになるまで、繰り返し行ってくださいました。
しかし、十字架の時は、まだ訪れてはいなかった。
その業は、世の光が現されたのにもかかわらず、指導者たちは隠しました。
認めなかったのです。
メシアであるかどうかの判断を示したのは、指導者たちのように記されています。
隠したのも、公にするのも、議員たちの判断・人の思いのように記されているのです。
民は、「メシアかも」と、思いながらも、自分たちの常識を当てはめようとしました。
人々は、理解できなかった。思いとは、異なっていたから。そして、無力となって行きました。
無力な者を神さまは、憐れんでくださり力を送って下さいます。
主の十字架の業に与った弟子たちの手には、釘に貫かれた跡が有る。
ふさがれずに、穴を空けている。
それを見られた主は、そこに指を、差し込まれる。
「無力なものよ。これでは、何の力も、働きも出来ないであろう。」そう憐れんでくださり、その穴の空いた手に代わって、主の力を現して下さるのです。
そうやって、力なき者にも奉仕の力が与えられます。委ねる弟子たちには、持たざる賜物に代わる恵みと祝福が与えられるのです。
聖書に記された主が、迷う小羊である者を担い、共に歩んで下さる事に気づくのです。