ガラテヤの信徒への手紙 6章1~10節
高松教会 村上貴志 牧師
パウロは、「御霊によって生き、歩みなさい」と勧めました。
それは、神さまの愛の中で生かされるということです。地上での歩み。
様々な困難や悩み・不可能と思えるような事に阻害されます。
多くの重荷を背負って、歩む事が出来ないようになる事が多いのです。
その時に。
私たちは、神さまに熱心に祈ります。CSの年間聖句のように、
「求めなさい、そうすれば、与えられる」(マタイ7:7)その事を知っているからです。
「神さま、この私の重荷を、できることならば、取り去って下さい。」そう祈るのです。
そのような私たちには、イエスさまを通しての導きが有りました。
「疲れた者、~。わたしの軛は負いやすく、私の荷は軽いからである」(マタイ 11:28~30)
しかし、それは「イエスさまと共に歩む」と言う事。「十字架の道」であります。
弟子たちでさえ、逃げてしまうような道でした。
「我らを苦しみにあわせないでください」そう、祈る私たちに、「その道を、歩みなさい」と、
イエスさまは、言われました。それは、もう一つの祈り「悪より救い出だし給え」の願いを叶えるためです。
本当の苦しみは、…。神さまの御姿を見失う事なのです。地上での困難ではないのです。
見失った時、「導く友が与えられるよう」祈る。
傍らで、迷っておられる・見失っておられる方が、いるのならば、その方と共にいたい。
その時に、お互いの本当の状況を分かち合う。
「願う・できる。」の一方通行ではなく、相手を覚え、互いに重荷を分かち合って、
担っていくことが、「教会の歩みだ」とパウロは、教えているのです。
「主が担ってくださった分」私たちは、なお、担っていくことが許されたのです。
「赦された者が、用いられた」喜びを、私たちは、教会で分かち合いたいと願うのです。