ヨハネの手紙Ⅰ 5章1~20節
高松教会 村上貴志
「神さまから生まれた者」は、全て永遠に続く広がり・永遠の命を持ちます。もちろん、地上での命には限りが有りますが、地上での役割を終えた後にも御国において祝された喜びの歩みが備えられているのです。それは、「信仰」が、神さまから出ているからです。「神さまに対する思い」(私自身の思いの事ですが)勝手に思い込んで、良いのでしょうか?はたして自分は、相応しい者なのでしょうか?
「一緒にいさせてください」そう願って、受け入れられるのでしょうか?私自身の日常での生活や思いを省みると自ら進み出ようとする事は、敷居が高すぎるように思えるのです。信ずべき「神さまの掟」。十戒の遵守を指すのではなく、イエス・キリストによる救いの約束を信じています。でも、この救いの業には、誰も参与する事が出来ません。神さまからの一方的な愛の業であります。さらに、その救いを信じる事が出来るように一人一人を導かれ変えて下さり、その上、聖霊の働きにより心の内にときあかして下さっているのです。これこそが、教会に与えられた大きな喜びなのです。
でも、何かが、私の思いを反対の方向に引っ張っているような気がします。「世に打ち勝つ」ように。そのために、イエスさまが来られたのです。「私たちの救われた喜び。この大きなものを、何とかしてお返ししたい」そう思ってしまうのですが、これは、神さまに対して返すのではなく、私たちと同じような救われるべき人たちに、証しすることが、教会としての勝利へと繋がるのです。
主の愛の内に入れられている。留まり続けている。そう思う人には、一つの確信が与えられています。神さまの栄光を現すための願いは、祈りは、必ず聞き届けられる。「必ず」であるのだから、それは、「既に適えられている」という確信となるのです。