ヨハネの手紙Ⅰ 1章1~10節
高松教会 村上貴志
ヨハネの教会には、偽教師たちや霊的熱狂主義者たちが入りこみ、信仰的な未熟さを元にした混乱がありました。それらは、自身の行動によって「罪からの清め」が与えられると思った事。自分と神さまとの直接的な繋がりを求め、実現したと説いたのです。だから、そこには、「罪の許し」。神さまから離れている「罪」という思いも無かったのです。個々人の思い。励み・努力を追い求めると、本当に目を向けなくてはいけないお方、神さまとキリストから目が離れてしまうのです。
ですから、教団は伝えるのであります。教会は、神の民とされるように。神の民の信仰を持つように。イエス・キリストを中心とした教会の、信仰的な交わりを通して、神さまの憐れみに与り、主の十字架の贖いによって、「罪からの清めを信じるように」と。世の初めから有る喜び。神さまが全てをお造りになられた時、共に居られた神の御子から「聞いたもの」教えていただいた福音・良き知らせだと伝えます。
それは、かつての預言のような約束では無く、既に、教会が受け取った事。その喜びに与った「命の言」を、根拠とすると断言するのです。
主に出会い、主を通して神さまを知ることが大切です。神さまを知らないならば、「神さまから離れた」という「罪」を認識することが出来ないからです。願う事が、出来ないからです。「罪赦された喜び」を、知ることが出来ないからです。人を愛して下さる御言葉を受け取る事が出来ないからです。神の言葉は、神さまの御意志。全てを愛する思いなのです。
「父なる神、子なるキリスト、弟子たちの教会」ここに、ヨハネの教会が有るのです。「全ての人を愛する」主の思いに満たされる人は、教会での交わりを通して、命の言を通して、自分と周りの関係を「愛の関係・共に生きる関係」に変えていくのです。