ヨハネによる福音書 13章31~38節
高松教会 村上貴志
イエスさまが、キリストとして、神さまの御業を全うする。
十字架の業・救いの業でありますが、それは、「イスカリオテのユダの裏切り」から始まったのです。
「裏切り」人の思いの、暗い部分が蠢いている出来事です。
良く無い思い・怨み・逆恨み、自分の思い中心の「欲の業」であります。
「裏切り・欲の業」から「十字架への道・救いの業」が、始まる。
不思議に思えます。いえ、不思議では有りません。
イエスさまは、その様な「欲の業」に曳かれた「罪」より、私たちを贖いだされるために、十字架に架かられようとして下さったのです。
この事は、神さまの成される業なので、「必ず、成就する。完成する。」
イエスさまは、そのような意味を込められ、「今や」と、語られます。
神さまが、人を愛されて始められた業を信じておられたのです。
「愛の業」を始める時には、人の思いを突き動かすような・突き破るような力が、働くのです。
愛の業に、相手は、関係ありません。
ユダやペトロを、前にしての出来事であっても、イエスさまは、その歩みから退かれる事は、無かったのです。
地上での愛の業は、「神さまの思いと一つになって」現されるのです。
レビ記19章18節を越える「神さまの思い・愛」が示されます。
神の国が現されようとしている時、全ての人が、恵みと平安に満たされる。
その時には、一致するための見せかけの愛を実践する必要は、無くなったのです。
本当の愛が、告げられます。「イエスさまが私たちを愛して下さってように、互いに愛し合いなさい。」
「福音は、…」 「正しさ、律法における正しさ」では、無いのです。
後からここに来る人たちへの福音・救いの良き知らせは、「愛の業」なのです。
主が、私に与えて下さった喜びの愛の業を思いだし、それを、互いに実践したいと思うのです。