ヨハネよる福音書 9章24~34節
高松教会 村上貴志
とうとう、待ち望んだ献堂式の日がやってきました。おめでとうございます。
会堂には、新しい椅子が揃いました。椅子が揃ったのを目の当たりにした時、私の頭の中に讃美歌492番が鳴り響きました。
「神の恵みは、いと高し。~、いと深し。~、いと広し。」思いを越える恵みが浮かび上がりました。
それと同時に、「これで、一段落、…。」でなく、会堂の使い方について、これからも工夫を進めていきたいと思っています。
礼拝する場、祈りの場、讃美の場、悔い改めの場、宣教の場として、神さまがこの場所を与えて下さった事を感謝したいと思います。
ユダヤ人たちは、盲人であった青年を呼び出します。
彼は、主イエスを信じ、従う者となっていました。
ユダヤ人たちは、「イエスを、罪ある人間だと知っているのだ」と、詰問します。
彼らは、青年が目の見えなかった原因を罪のためだとも語りました。
「罪あるから見えない」そう言いたてたのです。
しかし、この青年は、「今は、見える」そう語ります。
「神さまは、罪人の言う事はお聞きにならない。私の目を開いた人こそ、罪なき人。神さまの元から来られた方だ」青年の願いも聞かれた。
イエスさまの弟子となり、罪赦されたから。神さまは、その願いを聞き届けられたと言うのです。
そのような恵み、神さまに仕える人たちなら、充分に知っているでしょう。
あなたたち(ユダヤ人)も、弟子になりたいのか?
青年は、そう問いかけます。
「罪をゆるしてもらいたいのか?」そう語るのです。
痛烈な言葉です。
「『罪人だ、罪人だ』と裁いている人たちこそが、罪人なのだ」そう語ったのです。
そのような人たちに、「弟子になりたいのですか?」
罪の中に生まれた人を、キリストは、救われ導かれることを、伝えているのです。