クリスマス礼拝
イザヤ書55章6~7節
高松教会 村上貴志
クリスマスおめでとうございます。
3名の兄弟姉妹の転入会者が増し加えられたクリスマス礼拝を、皆さんと共に守る事が出来て感謝しております。
さて、皆さんは、「クリスマス」という言葉から、どのような事を思い浮かべるでしょうか?
その中には、「預言」という言葉の思い浮かぶことでしょう。
今日の聖書の箇所「イザヤ書」も、大切なイメージの一つとして加えられていると思います。
救い主が平和の王として、地上に来られる時。
強い者も弱い物も、神さまの元で恵まれて豊かな祝された平和を受け取るのです。
イザヤは、どうして、このようなメッセージを神さまから人に取り次いだのでしょうか?
強い者も弱い物も、…。
今の世の中も、大きく混乱していますが、イザヤの時代は、もっともっと、混乱していたのです。
イスラエルは、捕囚による大いなる苦しみの中にあったのです。
そして、その苦しみが、あまりにも長かったので。その中に、沈みこんでしまいました。
神さまの恵みと祝福を忘れて、…。とても、残念なことです。
神さまは、そのような民を、見つめておられた。
神さまが、何もせずにおられるはずが有りません。救わずには、おられなかったのです。
しかし、民は、預言者の言葉に従えませんでした。
人々は、苦しみに埋没して、暗く深い淵の中で、光を見る事が出来なくなってしまっていたのです。
イスラエルは、神さまに背き、神さまから遠くへ離れてしまった、逃げてしまったのです。
「逃げるイスラエル」神さまは、放置することが出来ませんでした。
神さまから離れるという「罪」の世界に埋没した人を、主は、迎えに来てくださったのです。
イザヤは、その見えている神さまを、「見いだしうる時に、立ち帰れ!」と、語るのです。
迎えに来てくださった主の姿を。