ヨハネによる福音書 4章46~54節
高松教会 村上貴志
イエスさまは、どうして王の役人の願いを聞かれたのでしょうか?
役人は、イエスさまがどのようなお方であるかを信じていませんでした。
信じていないのに、すがってくる。
私が、弟子であり、居合わせたなら。
「帰れ。」と、追い払ったかもしれません。
「あなたは、『しるしや不思議な業を見なければ信じない人』であろう。
主は、御利益を与えるためにここに居られるのではない。」と。
「見ないで信じる人」こそが、主の元に集うのに相応しい人だと思っているからです。
その思いの中には、「今の私は、見ないで信じる者だから」という自負が込められているのかもしれません。
全てを御存知のイエスさまの発言の真意は、どうだったのでしょうか。「見なければ、決して信じない」その言葉は、「見たら、信じる?」と問われたのかも知れません。
「見たら信じるのか?信じるのであるのならば、今、信じる事が出来ないだろうか?人が、真により頼むのは、神さましかいないのだから。」
聖書の口調を想像すると、イエスさまの御言葉は、突き放すような印象に感じますが、本当は、導かれるように語られたのかも知れません。
その優しいお言葉。私は、忘れてしまっているのかも知れません。
今、神さまの恵みと祝福に満たされている時、「見ないで、信じる」ことが、当たり前だと思ってしまいます。
しかし、私も以前は、この役人と同じように、「お願いします!」の思いしかなかったのです。
私は、…。
神さまの祝福と恵みの中で、溺れているのかも知れない。
そのような私のためにも、主は、教えて下さった。
導いて下さった。栄光を現されたのです。
「二回目のしるし」とは、「もう一度」私たちに、「本当の主の愛の姿を見せて下さった」という事なのかもしれません。