ルカによる福音書6章20-26節
高松教会 村上貴志
「幸い」マタイ5章は「山上の説教」ルカは「平地の説教」ルカでは、「あなたたちは、(二人称複数)幸いである」神さまからの福音が届いていますよ。宣教のスタイルで語られています。とりあえず、来た人たちにも「祝福を与えよう。安心しなさい。」と。
イザヤ書61章の冒頭で預言された言葉は、叶えられたと。この福音・良き知らせのために、神が、イエスさまを選ばれ、遣わされ、神さまから離れた故に、囚われ人となってしまった状況から解放し、希望が見えるようにして下さった。大いなる恵み。
この言葉を、確認したのです。
具体的な「幸い」とは?「貧しい人々」原語では物乞いをするほどの「赤貧」。取り上げられ、飢えており、悩み悲しんでいる。困っているのに、誰も助けてくれない。満たされる事が、無い状況。
自ら神さまから離れた者を、神さまは、今も、見ておられる。「赦されておられる」と伝えるのです。
そこに、神の恵みがある。祝福がある。悲しみや苦しみは、一瞬の歴史である。神さまを信じる人たちには、その先に、希望が有るのと言うのです。
しかし、苦しみや悲しみの中の希望?本当にあるのでしょうか?自分ではどうする事も出来ないくらいの状況まで落ちた時に、恥ずかしい事に、神さまを思い出す。「ごめんなさい。都合の良くて」
神さまは、「おかえり。よく思い出した。戻ってきた」と、喜んでくださいます。迎え入れて下さるのです。だから、「今」。聞いた時にこそ、歩みだしなさいと、言われるのです。さもないと、少しずつ消耗してしまう。最後には、命を失う。イエスさまは、その様な人に、「目を覚ましなさい!」と、声を掛けられる。そのような人たちのために、イエスさまは、来て下さったのですから。地上の中に、神の国の喜びと祝福・希望が、満ち溢れる事になるのです。