マタイによる福音書8章5-17節
高松教会 村上有子
多くのことを語り、そして、語られたことを行われるイエス様。有言実行の主は、頼ってきた者たちを助けます。重い皮膚病に侵されて「汚れた者」とされてしまった者から、異邦人の百人隊長の部下、身近な弟子の姑、悪霊に憑かれた人々。みな癒されました。彼らは、癒されて満足?したと思います。しかし、聖書は語ります。「彼は私たちの患いを負い、わたしたちの病を担った。」と。
私たちは、肉体にあって生かされています。しかし、たましいにおいては、神様につながっていない限り、死んでいるのです。罪の報酬は死です。(ローマ6:23)罪からの救いを得なければ、たましいは癒されません。私たちは、皆癒されなければならない罪人です。そのために、私たちの罪を負って、イエス様は、十字架に架かって死んでくださったのです。その主を信じることを通して、私たちは、救われるのです。救われているのです。救いの達成を目指して歩んでいるのです。(フィリピ3:12)魂の救いを得ている者は、永遠の命を持っています。イエス様が生きているように、私たちも生きるのです。(ローマ6章)イエス様にあって死に勝利していますが、その時になれば、私は、周りの者を困らせて、往生際の悪さを見ることでしょう。しかし、今、確信しています。イエス様にあって、たましいは癒されていることを。主にお会いすることを心から望んでいることを。私の罪を負って十字架に架かるほどに愛してくださったイエス様。御独り子を十字架に架けて、私との関係回復を求めてくださるほどに、愛してくださった父なる神様。知るべきことを教えてくださるようにと私に臨んでくださっている、私のうちに生きておられる聖霊なる神様。どうしようもない自分をどうすることもできない私ですが、主よ、感謝します。イザヤ書53章を拝読しましょう。