高松教会 村上貴志
マタイによる福音書7章7-12節
「求めよ、さらば与えられん。尋ねよ、さらば見出さん。門を叩け、さらば開かれん」(文語訳)
教会でなくとも、世間でも、流布している言葉。
人生訓として、人々の心の中に入っている言葉です。
過去から、数えきれないほどの人が、この言葉を胸の中で反芻し、祈って歩んできた事でしょう。
では、さて。今の私たちは、何を、祈って求めているでしょう? 物質的には、この国で普通に暮らす分には、充分な物をいただいております。
将来の事? 老後の心配?「 明日の事は、主が!」
神さまの護りの中に置かれ、恵みの生活を歩ませていただいている人は、自分のために、祈る必要が、少ないように思える。「祈っていない」のではなく、既に、与えられている。(足る事を覚えて)
では、他者に目を向ける。家族の事。救いに至るように。 社会の事。平和が訪れるように。衣食住、足るように。病が癒されますように。健康が支えられますように。足腰が。認知とならないように。
「足る事を知れば」祈りの方向が、変わって来るのであります。このことは、素敵な事であります。取るに足らない自分が、イエスさまの救いの御業に入れられた事・恵みをいただいたこと・永遠の命に与らせていただいたことを覚えて、世に歩む全ての人が、この喜びに与るように。素敵な祈り。
でも、その願い・祈り。自分に対する祈りと比較して、真剣でしょうか?「求め・探し・叩いている」でしょうか?しつこく願っているでしょうか?その事を、祈り求める時代なのかもしれません。
「祈り求める」それは、神さまと向かい合う事であります。イエスさまが、神さまと私の間を執り成してくださったことを、覚える時でもあるのです。