高松教会 村上有子
マタイによる福音書6章5~15節
子どもは初めから言葉を話せるのではなく、聞く、見る、触る、などあらゆる感覚を用いて、学んでいくのだと思います。もちろん、私にも小さい時がありましたから、いろんな形で習得し、また教えてもらったのだと思います。いまだに日本語の難しさを覚えているのは、小学生の時代にしっかりとした日本語日本語教育を受けていなかったからだと分かっています。大人になって挽回したいと思いますが、時代によって、また言葉は変わっていくことも私たちは知っています。
弟子たちにとって、「祈り」は大切なものでした。ユダヤ人にとって、「在りて在るお方」、「ヤコブの神、イサクの神、ダビデの神」に祈ることは、小さい頃から教えられていました。しかし、弟子たちが従っていたイエス様の祈りはどこか違う…そう感じていたのでしょう。「祈りを教えてください」(ルカ1章1節~)と乞うたのです。そして、イエス様は、「こう祈りなさい」(マタイ5章9節)「「祈るときには、こう言いなさい。」(ルカ11章2節)と、「祈り」を教えました。それが、「主の祈り」です。
「主の祈り」の内容を分からずに、礼拝の中で祈っていました。また、受洗してからも、祈りたいけれども、どのように祈ったらいいのか分からないので、「主の祈り」を祈っていました。朝起きて、夜寝る前、何か困ったことが起きた時、不安に襲われた時、辛い時、悲しい時…。少しずつ祈ることを知るようになり、そのうちに、「主の祈り」が私の中で形骸化していることに、気づきました。何も考えずに、呪文のように声を発している自分に気付き、唖然としました。しっかりとイエス様が教えて下さった「祈り」を学び直そうと、キリスト教入門クラスで学び始めました。しかし、コロナ禍にあって、今中断しています。「主よ『主の祈り』を教えて下さい(祈)」