高松教会 村上貴志
ネヘミヤ記 10章1~32節
先週、日本基督教団聖霊刷新協議会の講演会に出席して参りました。講演は、進藤龍也牧師。ミッションバラバ系の先生。教誨師の導きを受け回心され伝道者となられた方です。その言葉は飾らずストレート。どのような困難をも笑い飛ばして、主に感謝。本当に、喜びを持って! 出所した時には、迎えが無い。行く所が無い。そこに、ザアカイを思い浮かべた。自分とオーバーラップしたと言う事でした。
そこで、教誨師の教会に住み込んで生活を始める。そして、伝道者としての歩みをスタート。その後、母親に赦しを乞い、伝道を開始。彼自身が、神さまとイエスさまさまに、していただいたこと・いただいたことを、昔の仲間たちに伝えて行ったのです。
彼の語った事は、大きく言うと二つ。「赦し」と「愛」
何も持たない彼が手にした物を、彼は伝えたのです。
そこで思った事。「私は、『赦された』という思いに、どれ程、向かい合った」だろうか?じ自分が、「神さまに背いた」そして、「赦していただいた。愛された」と、思っているだろうか。「小さな罪人」の私は、「ちょっと、正しく生きたら・修正したらリカバリー出来る」と、思っていないだろうか?
結論から言うと「できませんよ!」私たちの犯した罪が明らかにされ、見つけられ・裁かれ・赦されなければ、…。進藤先生は、実体験からそれを知ったのです。「罪の重荷に押しつぶされる」全てを失ってからでないと、分からない事なのかもしれません。
イスラエル民族も同じでした。背信の結果の苦しみ・絶望。戦争・捕囚・奴隷。そして、信仰の喪失。
全てを失って気が付いた。「私たちには、聖書の神さましかいない!」 そう気づいた人たちが、「罪の告白・悔い改め」を文書にし、署名捺印したのです。
主と共に歩む喜びを再び感じて信じて。