高松教会 村上有子
使徒言行録 2章46~47節
エレミヤの時代、偽預言者、祭司たちもイスラエルの民に真の預言をしていなかった「平安だ、平安だ」と民の耳に心地よいことを通して、自分の立場を守ろうとしていた(エレミヤ書6章14節)。「人間の本性を善。地獄など存在しない。」と誰がいっているのか。聖書はそのようには私たちに語っていない。神様の審判は、刻一刻と迫っているのである。
キリスト者であるならば、誰でも心の奥底では、万人救済主義が本当であってほしいと願っていることを躊躇する必要はないと思う。人々が永遠に失われるという考えに、誰が喜べるだろうか。それゆえに、万人救済主義は、心に慰めを与える教理である。その点、それに代わる教理(ある者は救われ、ある者は滅びる)とは異なる。しかし、願望で真理を曲げてはならない。万人救済主義は非常に魅力的である。しかし、過去の信仰者たちは、痛ましく思いつつも、万人救済主義が道徳性を失わせ、霊的な死を招くという理由をもって、退け続けたのである。万人救済主義は、最初の過ちであるエデンの園における「あなたは死なない」という悪魔の宣言と同じであると知っていたのである。教会は祈っているだろうか。18世紀の覚醒運動と19世紀の世界宣教運動の背後にあった力は「祈り」であった。その「祈り」はキリストなしにこの世を去る者は失われるとの苦悶から生まれた。もし、万人救済主義が正しいのであれば、かつての伝道への熱心も祈りも、とんでもない誤解に基づいていたことになる。
毎日ひたすら心をひとつにして祈る群れ。滅びゆく愛する家族、友、隣人、日本、世界のために祈る。高松教会はそういう教会です。イエス様を知るという一方的な恵みをただ先に頂いている者として、祈りましょう。