高松教会 村上有子
マタイによる福音書5章43~48節
「しかし、わたしは言っておく。」と、聴く者たちの常識を覆すようなことをイエス様は、また言われます。人々は、律法の専門家たちに「隣人=(イコール)ユダヤ人を愛し、敵=(イコール)ユダヤ人以外を憎め」と命じていました。律法学者たちは、旧約聖書を彼ら流に解釈し、ユダヤ人であっても異邦人と付き合う者たちを「罪人(つみびと)」扱いしていました。間違ったことを行っていても彼らはそのことで、神を崇め、神の命令に厳格に従っていると自負していました。44節の「敵を愛せよ」は文語訳の「汝の敵を愛せよ」が原文に近いので、説教題にしました。イエス様の命令は、私たちには不可能に聞こえます。「愛しなさい、あなたたちの敵たちを、そして、祈りなさい、あなたたちを迫害する者たちを」(原文に近い語順での訳)イエス様は、私たちにできないことを命じられません。イエス様と出会い、イエス様を信じた者は、「天の父の子とされると語っておられます。イエス様にあって、私たちは、自分の敵を愛し、その人たちのために祈ることが出来るはずです」といっても自分にとって敵である者を愛することは、簡単なことでは決してありません。好きな人をずっと好きでいることすら難しい人間です。
そして、「私の敵」とは誰だろうかと考えました。イエス様の「善きサマリア人」のたとえ話【ルカ10:25∼37】を思い出しました。自分の敵であるユダヤ人を介抱したサマリア人。彼にとってこの哀れなユダヤ人は「隣人」になりました。そして、このユダヤ人にとってもこの善きサマリア人は「善き隣人」となりました。
私は、「私の敵を無理くり愛そう」ではなく、「私の隣人のために祈ろう」
そこから始められそうです!