高松教会 村上有子伝道師
詩 編 103:1~22
詩編は、私たちに与えられた「祈りの学校」です。
苦しみの吐露や復讐の祈りに抵抗を感じられる方々もおられるかもしれません。詩編は奥深く祈りの本質を学べます。その中でも103編はダビデ詩編の横綱級の名編です。スポルジョンという有名な神学者であり牧師が称えています。「連なるアルプスの山並みに一際目立つ峰々のあるごとく、霊感の詩編に卓越する歌の高みあり。しかして、聖なる讃美の山並みのモンテローザ(スイスの最高峰)とも見ゆる、我が第103編なり。」その冒頭が「わたしの魂よ、主をたたえよ。」であり、締めくくりも同じ命令です。この詩編のもう一つの命令が「忘れてならない」であります。何を忘れてはならないのか。それは「主の御計らいを何一つ」です。3節以降は、主の御計らいが具体的にまたは抽象的に、記しきれないほどある御計らいの内の中心的なことが記されています。
さあ、皆さん、主の自らにして下さったことを覚えておられるでしょうか?覚えきれない、いえ、すっかり忘れている。いや、してくれたことさえ知らない。それが、一年の最後に「わたしの魂」の中身を覗いてみての状況でした。「一年の計は元旦にあり」と言って目標を立てられた方々もおられると思います。私も立てましたが、すっかり目標を忘れていました。覚えていられないのです。それが、人間の本質のような気が致します。だからこそ、与えて下さったこの詩編103編で、全身全霊で自分自身に語るのです。「主をほめたたえよ!」と。「わたしの魂よ。主をたたえよ。わたしの内にあるものはこぞって聖なる御名をたたえよ。」全身全霊で主ご自身をほめたたえること!そのことをもって、主ご自身を忘れない、いや、主を忘れても主に立ち返り続ける。主をほめたたえ続ける。それが、主を忘れないことに繋がるのです。