高松教会 村上貴志
コロサイの信徒への手紙3章12~17節17節
コロサイにいる異邦人キリスト者へ、パウロは、救いの確信を伝えます。「あなたがたは神に選ばれ、聖なる者とされ、愛されているのです」(12節)
勿論。条件は、あります。【創世記 34:15】ここでの「割礼」は、「信仰告白・洗礼」と読み替えて下さい。信じる人は、皆。救われる。パウロと同じように。パウロが、イエスさまに捕えられて、まことにキリストの御業を受け入れたように。信じたように。変えられたように。そして、神さまに、イエスさまに、愛されるのです。パウロは、「愛された者だから」という前提で話を進めます。
「選ばれた者としての5つの徳を身につけなさい。」
しかし、「互いに」誰かとの関係性の中で、まことに謙り合った関係を築いているであろうか?忍びあい=本当の姿を隠しあったり、責め合ったりしては、いないだろうか?もし、そうであるならば、それは獣の姿と同じようなものです。
私たちは、神の似姿に造られた。【創世記1:26】
「獣のような思いをも、治めるように」神さまは、私たちを、お造りになられているのです。獣との違い。「愛を身につける事によって」全ての人への愛を実践するよう勧めるのです。 それは、イエスさまが、私たちに対してして下さった事。「赦して下さった事」それを、受け入れた時に、あなたがたは、「真の愛」を、知ったのでは無かったのか?
「キリストの平和」とは、力による変革では無い。 論理による変革でも無い。ただ、従うだけ。【マタイ 5章38-42・43-48節】奪おうとする者に、力を持って抵抗するのではなく、与える事によって。
慰めを得る。それでは、我慢できない。
主は、赦して下さっているのに。「互いに=教会で」そこで、分かち合い・支え合い・担い合う、重荷を負い合う関係が大切なのです。