高松教会 村上有子
マタイによる福音書5章17~20節
イエス様にとっての聖書は「旧約聖書」です。新約聖書では、旧約聖書の事を「律法と預言者」と表現します。イエス様はこの旧約聖書全体が、間違って解釈され運用されていることを正そうと大胆な表現を使って群衆に語っています。人々は混乱しました。「律法学者、ファリサイ派の人々を批判するこのイエスという人物は、何者なのだ?」という混乱です。彼らは、民にとって公認の律法指導者でした。イエス様は正式なルートで律法を学んでいないのに、権威ある者のように語っている。取税人や罪人と言われた人々と交わり、食事をする。律法学者たちと真反対の事を行っている。「この人は 『律法と預言者』を信じていないのか?」「この人はこれを廃止しに来たのか?」「この人は、新しい教えを持ってきたのか?」人々の疑問には、聖書自体が答えています。「律法と預言者」すなわち「旧約聖書」は「絶対的に永遠のものである」「極小さな箇所でさえも成就する」と語っています。「天地が消えうせる」まで、すなわち「世の終わり」まで、「廃止されることはない」と語っています。イエス様は「律法と預言者」の成就のためにこの世に来られた方です。この律法の要求の最高峰が十字架です。この律法を軽んじ、間違って教えてはならないと言われています。しかし、イエス様の語りかけを真剣に聞く者は既に「天の国」の者とされています。そして、間違って自分の栄光を律法で表わそうとしている律法学者、ファリサイ派の「義」を越えるには、①イエス様にそのまま全身全霊を向け続ける事②「天の国」入れられる者として、イエス様から離れない事を切に願って、イエス様は語っておられると思います。この世には「義人」は一人もいないのですから。【ルカ18:9~14】の譬えを読み、各々自己点検し、祈り、イエス様にとどまりましょう。