東京神学大学 坂 口 由 起
マルコによる福音書15章33-39節
12時になると、闇が全地を支配しました。神様はイエス様を罪人とされ、闇に落とされました。
イエス様は十字架につけられてからずっと沈黙しておられました。罪人たちに凄まじい暴力を受け、侮辱されているという激しい現実の中にあるにもかかわらず、主の十字架にあるのは沈黙でした。
「わたしの魂は沈黙して、ただ神に向かう。神にわたしの救いはある。」(詩62) 詩編において「沈黙」とは、神様の救いをじっと待ち望むことです。主は十字架の上で沈黙され、ひたすら神様に向かって祈り続けておられました。暗闇の中での沈黙は、救いを待ち望む「祈り」であったのです。
出エジプト記14章葦の海の奇跡でも暗闇と沈黙の出来事があります。神様は一晩中激しい東風で海を押し返し、水は二つに裂かれ、暗闇の中イスラエルの民は沈黙して乾いた地面を進んでいきました。神様はイスラエルの民を救い出し、神の民とするために、一晩中暗闇と沈黙の中で戦われたのです。
イエス様は十字架の上で、すべての人々を救うために、すべての人々を神の民とするために、一人闇の中で沈黙され、血だらけになって戦われています。暗闇の沈黙の祈りは、人間をこの世に束縛しようとする力、神様から引き離そうとする力に打ち勝ち、人々に真の命を与えるための戦いなのです。
「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか。」主の壮絶な叫びは、この世のすべての人々の絶望の叫びであり、すべての人々の救いを求める祈りなのです。主は十字架の上で叫んでくださいました。闇に覆われてしまった世界に、まことの光をもたらすために、何度も主に背き続けてきた私たちを救うために、十字架の上で叫び祈り、私たちのために死んでくださったのです。