高松教会 村上貴志 ヤコブの手紙 5章7~20節
7節には、「主が来られるときまで忍耐しなさい。」と、記されております。では、いつ来られるのでしょうか?この時代の信仰に生きた人たちは、「間もなく」という希望と期待を持っていたのです。しかし、「間もなく?」そう言われても、周りの状況は、…。
教会・クリスチャンを取り囲む環境は、刻一刻と悪化している。「もう、我慢の限界だ」そこまで来ている。 困難だと思っている。いつまで、…。いや、もういい!!「心を固くして」と、そこまで、励まさないといけない状況まで来ている。問題が大きい。
しかし、思い出して欲しい。皆さんのこれまでの歩みを。「農夫は、待つ」 日々の養いの糧は、主が与えて下さる成長の雨と収穫への雨によって、与えられている。一本ずつ麦の苗を見て、必要な量の水を与えていくのではなく。神さまがきっと、祝して下さる事を信じて、出来る事を行い、希望を待ち続ける。そして、今、生きている事は、その願いが叶い続けられている事の証し。
「神さまは、常に共にいて下さっている」
「再臨」この恵みを待ち続ける私たちであるが、その時が来て初めて、祝福が備えられるのかと言うとそうでは無く、日々、祝福されているのです。
「忍耐しなさい」絶望を耐えて、耐えて、耐え抜いた先の希望「再臨」では無く、日々の希望の先に、主が来て下さる事「再臨」が、ある事を覚えていてほしいのです。「諦めるな!」そう語ります。
預言者たちが、民に祝されたであろうか? 否、そうでは無かった。彼らは、忍耐して、語り続けた。
「忍耐した人たちは、幸せ」主の僕ヤコブは、語ります。なぜなら、【申命記28:1】神さまが、誓って下さっているから。
祈りの力を、信仰者は期待すべきであります。 故に、忍耐する事ができるのです。