高松教会 村上貴志
ヤコブの手紙 4章13~16節
高松教会は、7月7日が創立記念日で、今年で114年を迎えます。今治組合教会の横井牧師が、高松に伝道開始されてからは、136年となります。会衆派・メソジスト・長老派の合同教会は、キリストを頭とする一つの教会とされた世のしるしで有るのです。
では、世から神さまの元に・教会に集められた人たちは、どうするのか?神の家である教会に集まり、祈り・讃美し・礼拝し、憩いの水際で安らぎを得させていただいたならば、次は、どうするのか?
安らぎを得させていただいたのですから、再び、世に出るのであります。明日に向かって、一歩進みだす。「できるまで、帰って来るな!」とは、言いません。「一年」日本では、「石の上にも三年」と言われていますが、まずは一年。そう思い立ち上がる人たちに、外に出る人たちに対して、ヤコブは、「やれることを、やってこい」と、エールを送ります。
「無理するな」と、信仰的励ましを贈るのです。
「明日のことはわからない」(14節)と、語ります。「明日の努力」に期待するな!」と、語るのです。
「明日は、…。」 神さまの御手の内に有るのだから。
「明日になったから、何とかなる」ではなく、「明日になれば、あなたの事を、一番大切に思って下さっているお方が、あなたの事を、変わらず祝して下さる」と、語るのです。「明日を与えて下さるお方に、期待せよ」と、教えるのです。
では、「明日」とは、どのような期待・希望?
「主の御心であれば」それは、「神さまの言葉を、歴史を思い出せ!」そう語るのです。出エジプトに記されている「明日」ヨシュア記7章の「明日」。
神さまの新しい道が示される朝までに、備えるべきことがある。「本当に、主を信頼しているのか?」
「明日」には、希望がある!主の御心が示される! 「主の御心であれば」という祈りを、献げるのです。