高松教会 村上貴志 ヤコブの手紙1章12~18節18節
「試練と誘惑」信仰のテーマの一つです。
まずは、「試練」について。誰しもが心の中に浮かぶ聖句は【一コリ 10:13】でしょう。信仰生活や日々の歩みの中で、本当は、穏やかな歩みの方が多いのですが、印象に残るのは、試練。「どうして私だけに。」そのような思いを、抱きがちで有ります。この「試練」新共同訳・旧約聖書には、記されていません。
古い時代の人たちは、乗り越える事が、出来なかった。乗り越えるための、模範が無かったから。その模範となったのが、イエスさまであったから。
試練を乗り越えていく姿を、信仰者たちに示されたのは、キリストの姿で有ったからです。
【ヘブル2:18・4:15】この模範となられたお方を、仰ぎ見る者・共に歩んでいる事を感じている者が、「試練」に立ち向かう事が出来るのです。
今、私の受けているこの試練は、既に、イエスさまが、先に受けておられる。【一コリ 10:13】
このイエスさまの歩みを。十字架の歩みを。死にて葬られ三日目に甦りその栄光の姿を示されたことを信じるのであるならば、私と共に歩んで下さっている事を信じるのであるならば、どのような試練の歩みをも、耐え忍ぶことができるのです。
「誘惑」について。マタイ4章等の「サタンの誘惑」を思います。神さまから、引き離そうとする力。それに対し「退け、サタン。」(マタイ4:10)と、主が守られます。【マタイ6:13・マルコ14:38】と、教えられます。【一テモ6:9 ・マルコ4:19】「自分自身の欲望に引かれ」ないように。私たちが、勝ち取るのでは無い。「既にキリストが、世に勝っておられる・全ての恵みは、上より」これを、「信じるのか?」これが、私たちにとっての「試練」しかし、既にキリストの十字架の贖いに与った者にとっては、乗り越えられない「試練」では、無いのです。