高松教会 村上有子伝道師 マタイによる福音書3章13~17節 「洗礼」という言葉をテレビのバラエティー番組やドラマで以外に聞くことが多いように思います。ぼんやりとしたキリスト教のイメージから来る表現なのでしょうか。正しくは洗礼を受けた私たちが知っているはずです。しかし、あえて質問します。「あなたは、どうして洗礼を受けられたのですか?」イエス様の受洗から、私たちに与えられている恵みの深さを教えられるのです。イエス様は、洗礼者ヨハネから洗礼を受ける必要は全くありません。洗礼者ヨハネの洗礼は「悔い改めます=神に立ち返ります」ということを公に表す「しるし」です。神への信仰告白を形に表したものです。洗礼者ヨハネもイエス様には必要ないと、思いとどまらせようとします。しかし、イエス様はこのことは、正しいことであり、ふさわしいことだと言われるのです。なぜでしょうか? イエス様がこの世に来られた理由そのものが答えです。イエス様は、ご自分のため、ご自身の益のため、ご自分の栄光のために、ことをなさいません。全てが、私たちのためなのです。私たちに必要な救いのためなのです。私たちがイエス様と同じように洗礼を受けて(Ⅰヨハネ1章6節参照)、信仰の告白を公にし、この世の誘惑と試練の中、キリストのものとして新しく歩むために、与えて下さった洗礼(儀式としての洗礼式=水のバプテスマ)なのです。洗礼式を受けて、それで終わりではありません。洗礼者ヨハネの洗礼が「しるし」であるように、私たちの洗礼式も「しるし」であります。しかし、このしるしに、イエス様の更なる犠牲があるゆえに、私たちの洗礼が生きた信仰生活へと進ませるのです。 マタイにはなく、ルカによる福音書にはこう記されています。わたしには受けなければならない洗礼がある。それが終わる(成し遂げられる)まで、わたしはどんなに苦しむだろう。(12:50)この洗礼とは「十字架の死」のことです。私たちを贖うための死です。イエス様が私たちの病を背負い(イザヤ52章)、私たちの罪をすべて背負って、私たちの身代わりとなって、十字架で罪の贖いを成し遂げられたのです。このことが無ければ、私たちの受ける洗礼は「ただのしるし」で終わりです。洗礼とは何か?パウロは、分かりやすく語っています。ローマの信徒への手紙6章3∼11節を読みましょう。 わたしたちは洗礼によってキリスト共に葬られ、その死にあずかるものとなりました。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中から復活されたように、わたしたちも新しい命に生きるためなのです。洗礼とは、キリストと共に死に、キリストと共に生きることです。キリストと共に生きていますか?
2021
17Jan