使徒言行録 10章44-48節
高松教会 村上貴志
聖書の中の「異邦人」という言葉。深く考えると、実に不思議な言葉です。
異なる邦(くに)の人。邦(くに)とは、イスラエル・ユダヤ人を指しており、「神さまの約束の民では無い」という事を表現しております。
それに対し、ユダヤ人は「同胞」同じ腹から生まれた人。
では、異邦人は、同じ腹から・同じ先祖では無いのか?全ての民は、神さまがお造りになられたのでは無かったのか?
アダムから?続くのでは、ないのか?
創世記5章のアダムの系図。10章のノアの系図。信仰者の信ずる「ヒトの歴史」ではないのか?
異邦人も神さまの造られた民のはずです。
異邦人も、神さまを知っています。
ヨナの出来事を思い出して下さい。
ニネベには、神さまの思いが伝わっていなかった。
しかし、ヨナの言葉を聞いて、神さまの思いに立ち返り、悔い改める。
それも、災いが起こってからでは無く、直ちに!
神さまの思いが、伝えられた人は、知った人は、神さまの愛の歴史に加えられるのです。
「ユダヤ人は、神さまの思いに従う人。異邦人は、神さまの思いに反対する人。」ではないのです。
異邦人は、それまで、神さまの事を知らなかっただけなのです。
神さまは、その人たちにも、命を与えておられる。イエスさまの十字架の贖いを通して。
時に、異国を用いてでも、導かれる神さま。
異邦人をも用いられる。割礼の無い者でも。
約束の民でも、神さまから離れる。
信じていても、神さまの愛から、離れてしまう。それが、罪の姿であります。
誰しも、罪人である故の限界があるのです。
「異邦人=受け入れる事の出来ない人」からの神さまの御栄光が現された時、この神の御業に、抵抗するのか?
受け入れるのは、ヒトなのか?神さまなのか?
「全ての人を、愛しておられる」神さまの思いに立ち返るのか?
それが、問われているのです。