使徒言行録 7章30-53節
高松教会 村上貴志
後に石打の刑とされるステファノ。
「この最後の言葉・説教を語ると、自分の命は、閉じられてしまう。」
彼は、この最後の言葉で、…。
自分の弁明や命乞いをするのではなく、自分を殺そうとしている人たちの為に、
キリストの執り成しと信仰に基づく悔い改めを勧めるのです。
ユダヤ人たちが信じていない十字架に架かられたあのお方こそが、イエスさまこそが、彼らが長い間願い求めていた
「聖書で預言されている救い主キリストであること」を、伝えようとするのです。
ただ、ユダヤ人たちは、イエスさまを認めませんでした。否定しました。
そのような頑なな人たちに、モーセの働きを通して救いを伝えます。
モーセの話を思い出すならば、「今更ではない。まだ、遅くは無い。神さまに立てられたお方に、立ち返るべきだ。」そう伝えるのです。
出エジプトの時。
人々の不平不満の中にも、神さまは、礼拝する場所を備えて下さった。
いつも、共にいて下さったのです。
ヨシュアの幕屋。ダビデ・ソロモンの神殿。
そして、その神殿も、役割を終える時が来る。49節で語られるように。(これは、イザヤ書66章からの引用とされています)
神さまは、地上での形ある神殿を取り除き、神さまと人を執り成す救い主をお送りになられる事を、約束して下さったのです。
そして、その約束の通り、
「神殿を三日で建てなおされるお方。十字架の贖いより三日目に甦られ、神さまと人とを繋いでくださった方を」お送りになられた。
その方こそ、神の御子。神の独り子・救い主のイエスさまだと、ステファノは、教えるのです。
全ての人の救いは、
「神殿でもなく、律法でもなく、イエスさまの十字架による贖いの御業だ。新しい神さまの導きを信じて欲しい。」
命の灯が消えそうな瞬間にも、そう願う信仰を、私たちは見たのです。