使徒言行録 7章17-29節
高松教会 村上貴志
イスラエルは、神さまからの日々のデナリ(養い)に満足していました。
掟を守る報酬として、それを宝としていただいたのかも知れません。
しかし、その宝は、本当に蓄えられたのだろうか?
イスラエルが、手にしたのは、モーセたちが荒野でいただいたマナで有ったのかも知れません。
必要十分な糧であっても、蓄える事ができなかった。
イスラエルの手の内には、何も残されていなかったのです。
キリストの救いに与らない神の恵みであるなら、それは、砂上の楼閣のようなものなのです。
その状況に、固執するのか?
今までの歩み・自負・プライド・矜持。
それを、考えると、変わることができない。
イスラエルは、律法を捨てる事ができなかったのです。
イエスさまを通しての救いの御業は、ユダヤ人の歩みを否定しているように思ったのです。
しかし、主の十字架の御業は、信仰者が求めていた「神さまと共に」この喜びを、実現しました。
イエスさまは、律法を成就させられたのです。
律法による呪縛。そこから、逃げても構いません。
それで、神さまからの祝福が失われる事は無いのです。
しかし、周りの目が、気になる…。
今までの行動を思い出すと、立場が、…。
自分に向かっての「十字架に掛けよ」との叫び声を恐れるのです。
ステファノは、言うのです。
「その通り!しかし、神さまの御旨は。神さまの前での正しさを思うのならば、
悔い改めの思いを、神の御子の救いの御業を受け入れるべき」なのです。
律法を捨てる。
自分の犯した罪(歩み)からの逃避行となるかもしれません。
しかし、示された道であるのならば、モーセが逃げ出しても、その行く先で養いが与えられ、
上よりの恵みが与えられたように、必ず、祝福される事となるのです。
「これこそが、イスラエル・信仰の民の本当の姿」なのです。