ヘブライ人への手紙 13章20~25節
高松教会 村上貴志
パウロは、既に召されていたのかもしれません。一つの時代の終焉でした。
そのような時に、教会に繋がる兄弟姉妹に覚えていただきたかった事。
「契約の血」(ゼカリヤ書9:11)「羊の大牧者」(イザヤ書63章11節)栄光の中の執り成しが、教会にありますように!
神さまの愛とキリストの十字架の救いが、一層激しくなった迫害の中においても、変わらず与えられている事を伝えたかったのです。
パウロという指導者が、いなくなったとしても。
「古い時代に、モーセがいなくなっても、神さまの導きが、民に与えられたように。迫害・厳しい状況は、信仰の敗北では無い。神さまが世に負けられたのではない。変わらない恵みと祝福が、今も、キリストの十字架の元に置かれた教会にある事を、思い出して欲しい。そして、それを取り戻して、再会しようではないか。喜びを分かち合おうではないか。」と、励ますのです。
今、集っている方はそれで良いのかも知れません。
しかし、集えない方もおられる。まだ、教会に来られた事の無い方もおられる。
その方たちを覚えて。安息日に、愛する隣り人のために行う業も必要かもしれません。
共に食事し交わりを持ち、語り合う事。この事も、伝えていくためには、大切な事なのかもしれません。
「礼拝が第一である」と思っていても。 世に生きている事。
決して、世に迎合するわけではない。それは、世に伝えていく事なのです。
そのために、私の霊的な魂が枯渇するかもしれません。礼拝に集えないならば。
しかし、そんな状況は、存在しません。
CSの礼拝も、皆さんに開かれております。
夕礼拝も、早天の祈りの時も、可能です。
信仰をもって、教会で再会しましょう。
キリストに倣い、キリストの薫りを伝えるならば、そこに、喜びと平安と祝福が、与えられるのです。
あらゆる人と信仰を持って、再会するために。