ヘブライ人への手紙 12章14節~29節
高松教会 村上貴志
「もう一度」。自分が神さまに出会った頃、どのような思いを抱いていたのでしょうか?その時、どのような信仰が与えられたのか?その時、どのような信仰が与えられたのか?そして、今、どうなっているのか?「交わっては、いないだろうか?」その問いかけ、悩みに対して、私の奥から湧き上がる答えは?「まっすぐだ!間違ってはいない!」勿論です。間違いに気付いていたならば、とっくに修正しているはずですから。そう思うのです。 しかし、ほんの少しの進路の過ち。気が付かないのです。そして、異なる場所へ進んでいる。「聖なる生活を追い求めた」つもりなのですが。主から私たちを離そうとする力は、周りからでは無く罪人であった私の中から出てきます。救われているのに、神さまからの呼びかけ「選ばれたものよ」に、気づかない存在となっているのです。それは、自分では、背きでは無いと思っています。しかし、私の中に「苦い根(毒)」が沸き起こり、周りの人を巻き込もうとするのです。その行く先は申命記29:19.そうならないように、主の鍛錬が、与えられているのです。知らず知らずに、異なる道を歩んでしまった私。モ―セの時、神さまは地を揺り動かされました。(出エ19:18)しかし、拒む者は沢山いました。「もう一度」ハガイ書2:6で約束して下さったように、神さまは、揺り動かされました。私たちの信仰の歩みを。こだわりながらも、踏ん張る事が出来なくなった時に、私の体は、神さまの「大きな揺り動かし」で横滑りし、ずれていた場所から正しい場所に戻されたのです。 変わる事の無い神さまの願い。「全ての人が、共にあるように。」この揺り動かされない御国が存続するために、私たちの高ぶる場所は取り除かれたのです。無くなった故に、主の道のみを進めるのかも知れません。「もう一度」立ち返らせていただくために、この大きな揺り動かしに身を任せたいと思うのです。