マタイによる福音書 28章 1~10節
高松教会 村上貴志
毎年、春分の日の次の満月の次の日曜日。この日が、イースターです。
「甦りの命」を知るこの日。
主の元に急ごうとしているにも関わらず、「あの石が有るからできません」と思うことは無いでしょうか。
神さまがおられる世界だから、心配することはないのですが、目の前の障害物から目が離れないのです。
この聖書の箇所では二人のマリアが、安息日があけたのを待ちかねて墓へ向かう姿が記されております。二人のマリアは、思い悩みながらも、…。(それは、神さまに相談している。お祈りをしているということかもしれません。)思い悩んで諦めるのではなく、諦めずに、「神さま何とかして下さい。私には、どうする事もできません。でも、信じて、前に進みます。どうなるかどうか、分からないけれど、…。」
思い悩みながらも、進むのです。
すると、大きな地震(神さまが力をお示しになる時のしるし)が起こりました。
そして、「二人の力では、何ともならないという思い悩み。(それは、神さまへの訴え)」それに、ふさわしい導きが与えられます。
墓の前をふさいでいた石が取り除かれ、墓と人々の間を閉ざしていた石の上に、御使いが座っておりました。
それは、「死に打ち勝つキリストの姿」を、象徴しているかのようでした。
御使いは、「十字架につけられたイエスを捜しているのだろうが、あの方は、ここにはおられない。」と、語ります。
「かねて言われておったように、復活なさったのだ。」
終わりでは無いのです。
イエスさまは、その命を持って私たちを神さまから離れた世から取り戻して下さった。そして、その代償であった命は、神さまの御意志によって、甦らされたのです。
なんという喜びの知らせ。福音であります。
私たちは、「神さまとの間が執り成された。繋がれた。祈る事が許され、再び祝された」のです。