マタイによる福音書9章1-8節
高松教会 村上有子
今日の箇所では、イエス様の周りに人がたくさん集まっている様子が分かります。もちろん、イエス様がおられます。イエス様に友の病を癒してもらいたいと本人を連れて来た人たち。イエス様を妬み、訴える口実を見つけようとやって来た人たち。いろんな理由でイエス様の周りにはたくさんの人がいました。その一人一人の「心の中」全てをイエス様は御存知でした。私たちの判断では、友のために人の家の屋根まで壊して、病気の友をイエス様の目の前に連れて行った友人たちの「心の中」は、イエス様へ信仰と友への愛にあふれている「良い心」だと考えます。イエス様に「なぜ、あなたがたは心の中で悪いことを考えているのか。」と一言も発していないのに、「悪い心」に気づかれてしまった律法学者もいます。イエス様は、この場面では、大変重要な意図を持っていたようです。自らが「罪を赦す権威」を持っている者であることをお示しになった場面なのです。しかし、ここで、イエス様の意図を正確に知ることのできた者はいませんでした。後に分かる人たちがいるかもしれませんが、この時は、まだ、皆に理解できる「心」がありませんでした。友のために力を尽くした人たち、病をイエス様に癒された人、律法学者たち、それぞれの「心」がこのままずっと「良い」または「悪い」心で居続けることはないのです。人は、神であられるイエス様の十字架の意味を神なる聖霊の働きなしには、理解できません。「イエス様の十字架」の意味、「自分がどれほどの罪人であるのか」理解することはできません。
教会学校の皆さんには、この夏、自分がどれほど、イエス様を知っているか、自分の「心」をイエス様に向けてもらいたいと願っています。イエス様は、皆さんを愛しています。そのことを知る夏になりますように!