「 ルカによる福音書23章27-32節
高松教会 村上貴志
「神さまに愛されている・神さまと共に居る」そう思っていますか?確信しておられますか?
「徴税人」たちは、30節で、ファリサイ派や律法学者たちに言われるように「罪人」でありました。「イスラエルの神さまからの恵みを受け取る事ができない」と思っていました。「何も、もたらされていない。神さまは、傍らに、いて下さらない」と。
そのような思いの人たちに、「神から見捨てられた・離れている」と思っている人たちに、「そうではない。全ての人と共に神は、おられる」そう言われるかのように、神の御子であられるイエスさまは、彼らの傍らに進まれます。
「私に従いなさい」(27節)⇒マタイ19章「金持ちの青年」を思い出します。律法を守っていても、従う事のできない人がいる。しかし、徴税人たちは、
「何もかも捨てて立ち上がり」彼らは、「永遠の命を受け継いだ」(マタイ19:29)騒いでいた、ファリサイ派や律法学者たちは、取り残され、徴税人たちが先に、神さまに従いました。「先にいる多くの者が後になり、後にいる多くの者が先になる。」(マタイ19:30)の通りです。
「神さまは、私と共におられない。」そう思っている人たちに、イエスさまは、行動されます。
「傍らにいる・あなたと共に、食事の席に着く」と。
「神さまは、全ての人を等しく愛しておられる」気づいていない人に、神の御子は、知らせて下さるのです。十字架の御業によって。求めている人の所に、必要としている人の所に、主は、歩んで行かれるのです。攻撃する人たちの傍らにいて下さる。
「医者を必要とするのは、健康な人ではなく病人である。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招いて悔い改めさせるためである。」(31・32)気づくように。共にいてくださるのです。