「私たちの罪のため。十字架にかかったイエスさま」こどもさんびかの歌詞です。「罪」とは、神さまから離れた事。アダムとエバの時に。「私たち」とは?
イエスさまは、誰のために、どのような人のために、十字架に架かって下さったのでしょう。罪人。【エゼキエル書33章・3章】「主は、悪人が救われる事を望んでおられる」⇒「私が、そうだ!私の事だ!」と、思うでしょうか?
ユダの罪「9 こうして、預言者エレミヤを通して言われていたことが実現した」【マタイ27章】預言成就の為?神さまの御計画?裏切りを御存知であった主は、行動を受け入れた。後悔する者・ユダのような者のためにも、その命を献げられたのです。
ポンテオ・ピラト。使徒信条では、彼の非道のように告白しますが、再三、「何の罪をも見いだせない」と、語っています。ガリラヤの王ヘロデも、「罪を見出すことができなかった」猜疑心Maxヘロデの心にもイエスさまの罪は、明らかにはならなかった。「知っておきながら、知らないふりをした」この罪の為「見て見ぬふりをした?」日和見する罪の為?
「熱心な人のために」不思議な表現ですが、神さまを思うあまりに、人の想いに囚われてしまい、「神の御子を十字架に挙げてしまう」無辜の罪の為に。
イエスさまは、十字架に架かられたのです。
後悔し自分の思いに苦しむ者・神さまを一番に求め他者を攻撃する者・信じながらも黙る者。「罪人・犯罪者」だと思っていない者。私たちは、どれに該当するのでしょうか?イエスさまは、代わって、十字架に架かって下さった。「私たちの背きは、その命を失うのに、等しい事であった。」故に、イエスさまは、私に代わって、その命を捧げて下さった。
「何の罪をも見いだせない」十字架の贖いの業を終えられた、イエスさまは、声を掛けて下さる。