ルカによる福音書5章17-26節
高松教会 村上貴志
求める人たちに、「主の力」が、明らかにされました。「清くなれ」罪の赦しを宣言されていました。
そこに、男たちが中風を患っている男性を連れてきました。(この病も、神さまから離れた「罪」によって、もたらされる病気だと考えられておりました)
ところが、その病の人の一行にとって、困った出来事が起こりました。イエスさまは、家の中におられ、その周りを沢山の人たちが何重にも取り囲み、イエスさまにお会いできなかったのです。誰も道を開けてくれない。もしかしたら、意図的に阻止したのかも知れません。なぜならば、この病は、「罪の現れ」で、あったから。ここに集ってきた人は、主の御栄光に与りに来た人。神さまの前に、進み出ようとしていた人。身を清め。罪を覚え、悔い改めの思いを持ち、御救いに与ろうとした人。真剣に思った。
故に、この罪によって病に陥った人を、阻んだ。
いえ、それこそが、罪の現れ!イエスさまの元に来ている理由で有ったはずなのに。神の国を求めながら、神の国の掟に背く。小さな人たちを蔑ろにする。
罪の連鎖。打破する方法は、無いのでしょうか?
それは、やはり、イエスさまの歩みに従うしかないのです。「罪なき方が、十字架の罪を負われた」イエスさまは、私たちのために罪を負われた。
その「私たちは?誰かのために、罪を負う?」
罪の連鎖を断ち切るために。「私たちも、自らの十字架を背負って、主に従う」私も、この病いの人を連れだした人のように、なりたいと思うのです。
大切な人の救いを求めるために。そのために、阻まれても、行かないといけないかもしれない。
天井を・壁を打ち壊すくらいの、強引さ・大胆さが、必要かもしれない。それは、身を落とすこと。評判を落とすことかもしれない。
しかし、それが、「幸いな事だ」と思うのです。