マタイによる福音書7章1-6節
高松教会 村上有子
「人を裁かずにはいられない自分」を見出した先週を振り返りつつ、どうしたら、「裁かないでいられるのか」と御言葉と葛藤していました。この聖書箇所でイエス様が教えて下さった通りであります。自分の目から丸太を取り除けばよいのです。正しい視界が与えられて本当に正すべきことに、相応しい言葉をもって対応できるでしょう。しかし、どうしたらこの丸太を取り除くことが出来るのでしょう。
基本的に私たち罪を持った人間は、他人の粗探しをしたがります。言葉に出さなくても「心で思っているだけであっても、裁いていないことにはなりません。ローマの信徒への手紙2章を読みましょう。
すべての他人を裁く者たちへの神の慈愛が語られています。「それとも、神の慈愛があなたを悔い改めに導くことも知らないで、その豊かな慈愛と忍耐と寛容とを軽んじているのですか。ところが、あなたは、かたくなさと悔い改めのない心のゆえに、御怒りの日、すなわち、神の正しいさばきの現れる日の御怒りを自分のために積み上げているのです。(2:4,5)」それでも、あまりにも自然に他人を裁いてしまう自分。本当に恐ろしい罪深さです。
「この世の勝利を得ようとすることこそが、実は『敗北』なのであり、逆に不義を受け、奪い取られるという『敗北』こそが、実は本当の意味での『勝利』なのだという。それにしっかりと歩んでいる信徒は、神の裁きにおいて肯定的な裁きに自らを委ねられる。同様に、人間の裁きにおいても、淡々と自らを神に委ねていくことが出来るようになる。」(青野太潮著「どう読むか、聖書の難解な箇所、245頁」委ねること、という大きなヒントを頂きました。すなわち、祈り、イエス様に留まり続けること。「神の国と神の義を求める」ことにまた戻っていくことになります。イエス様の教えは、一貫しています。