ルカによる福音書2章39-52節
高松教会 村上貴志
最近、「宗教二世」という言葉を聞きます。信仰とは、「親の信仰を子が受け継いでいくもの」であります。聖書を読んでいる私たちは、それをよく知っております。旧約の歴史。アブラハムの子孫への約束の期待。その子を献げる信仰。どちらも真実です。
サムエル記。母ハンナの信仰も。やっと与えられたサムエルを、主に献げる。「主からの召しがあった」
それと、同時に、「父よ、できることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの願いどおりではなく、御心のままに。」(マタイ26:39)イエスさまの祈りの様に思った事でしょう。
その葛藤からの選択が、信仰と言えるのかも知れません。イエスさまにも、信仰は継承されました。
イエスさま12歳で過ぎ越しの祭りに詣でます。
間もなく一人前。両親は、この度に同行させます。
皆が目的を果たし、帰宅の途につく。ところが、イエスさまだけが、エルサレム神殿に残られた。
イエスさまは、「この神殿こそ、父の家・自分の家」(49節)だと、答えられた。
それでは、教会は、皆さんの「父の家」ですか?
礼拝の最後の「祝祷」があります。この祈りは、「派遣の祈り」。礼拝を終え、日常生活に向かう方々を、「神の家」から、祝福して送り出されている。
礼拝の後、教会を出るときは、「行ってきます」。来た時には、「ただいま」ということです。
皆さんには、そのような感覚が有るでしょうか?
「神の家」??「大人になって考える」とは、難しい事なのかもしれませんが、教会学校のこどもたちのように、「光の子」として教会に親しむ事。出来ないのでしょうか? 神の愛に包まれて。
教会が、「自分の本当の居場所・神の家にならないかな?」と、思います。