高松教会 村上貴志
マタイによる福音書6章25-34節
「思い悩むな」口語訳では、「思いわずらうな」
「いつもそう悩んでいる私たちの心を刺激する言葉です。「そんな悩みながらの生活」は、実は、贅沢な悩みでも有りました。イエスさまの時代。砂漠の国での生活。明日の事が見えないのであります。一日の護りは、明日には、繋がらない。今日備えても、明日、命が長らえるかは分からない。だから、「その日の労苦は、その日だけで十分」だったのです。
でも、「空の鳥の様に、何もしないと言うのは?」心配であります。見えない所で、飢えたりする鳥もいるはずです。「思い悩むな・わずらうな」と、教えられても、変わる事ができないのです。
そんな私の不安に対し、我が妻は、楽天家。いつも、「神さまの経済は、プラスも無くマイナスも無い。丁度いい。今を、生きる」これが、「何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。」(33節)と言う事なのでしょうか?私の歩みは、「父なる神さまが、必要な事を与えて下さるのに、思い悩む異邦人」(31・32節)のような歩みなのでしょうか? 30節に記されている、イエスさまのお言葉「信仰の薄い者たちよ」が、胸を打ちます。変わる事ができるのか?
でも、「明日のことまで思い悩んでしまう」どうしてなのか?「何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。」(33節)が、出来ていないからかも知れません。神さまを見ず、世を見ているから。更に、神さまの前で「相応しいか」を考えると、猶更不安。
だから、神さまは、その独り子を地上にお与えになられた。その命は、恵みいただく事無く滅びる命・炉に入れられる草のような私の命と交換された・贖われた。炉に入れられる命が、神さまと共にある永遠の命へと変えられた。その一方的な愛を知った。
既に与えられた事を、「思い悩む」必要は無い。
今日充分に悩んでも、「明日は、主が!」