高松教会 村上貴志
「ネヘミヤ記 12章27~47節
「城壁の奉献」エルサレムの人たちは、あらゆる所から祈る人・レビ人を求め、音楽隊を編成して、祝典を持とうとしました。もちろん、この祝いには、「ユダヤの祝いには、葡萄酒が必要だ」記述は無い。大切なお祝いの席なのに、準備できていなかった。
①造らなかったのか? そうかもしれません。【コヘレト2章】「この空しい時に」1・3~4節 1節空しいという結論の故に、造らなかったのでしょうか?そうでは有りません。
②空しい者であるか、希望を持つ者かは、箴言24章で比べてみればわかります。30~31節・12~13節。 この神さまの約束を【箴言 3:3】「主の慈しみとまことがあること」心の中に、刻み付けているから。と、すれば、
③造れなかった。 葡萄酒。箴言によれば、◆有能な妻が、つくるもの。31章16・10~12節 妻の知恵がなす事。有能な妻は、葡萄を絞った汁を、酢・ビネガーにすることなく、酒に変えていく神の知恵を受け継いでいる。伝えようとしている事は、「信仰的かどうか?」いつも、神さまに聴き従う人には、「祝福が与えられる」
では、ネヘミヤの時のイスラエルは?良い物には変わらない時代であった。当然であります。聖書の神に仕えず、異国の神々に目を向けた。
悔い改め・立ち返り。今、その途中で有ります。
もうその様な事は、言わない・願わないのです。よそ見しないのです。まっすぐに、憐れみの神・主を見つめる。祈りと讃美の行進のために。これからの毎日の信仰生活のために、喜びのために、葡萄の木を備えるのではなく、祈りを導いてくれる祭司やレビ人・神殿に仕える人たちを支えるために、献げ物をしたのです。喜びは、葡萄酒からくるのでは無い。神殿から聞こえる、祈りと讃美から来るのです。
信仰者の喜びは、「神さまの元」にあるのです。