金奎植(キム・ギュシュク)神学生
ルカによる福音書7章11~17節
ナインという町にイエス様が入ると、ちょうどあるやもめの一人息子が死んで、棺が担ぎ出されるところでした。葬儀が行われていたのです。多くの人がやもめに同情し、慰めの言葉をかけていたと思われます。
けれども、それは、やもめの気持ちを頭で考えること。または共感するだけのことであります。
彼らには慰めの言葉をかけることしかできません。そこで、主はやもめを見て、憐れに思ってくださって「もう泣かなくともよい」と言われます。この憐れみという言葉はギリシャ語原文では「はらわたを突き動かされた」という意味があります。
イエス様は、単に、頭で「憐れに思った」のではなく、腹の底から、はらわたを突き動かされて、その人に触れたのです。
また、ルカは13節でイエス様を主という言葉で表れています。
その「主」なる、またご自身のはらわたを突き動かされ、いても立ってもいられないほどのイエス様が絶望のどん底に落ち入ている母親に 、「もう泣かなくともよい」と言ってくださいました。
イエス様のやもめに対する愛と慈しみは輝かしいのであり、さらにイエス様の御言葉には力があります。権威があります。
他の人たちには慰めの言葉をかけることしかできないのに対してイエス様は泣かなくてもいいようにさせられる能力のある方です。
そして、死んだやもめの一人息子に「若者よ、あなたに言う。起きなさい」と言われます。
すると、やもめの一人息子は起き上がってものを言い始めました。
このようにイエス様の御言葉には権威があります。
創世記 1 章の、「光あれ、と言われると光がある」ように、言葉が発せられるとその通りになる。
これはまさに、神様しかできない御業であります。主イエスも同様であります。
そのイエス様が私たちを愛し、憐れみに思ってくださるからこそ、私たちは救われるのです。