高松教会 村上貴志
ネヘミヤ記 9章32~37節村
聖書の世界には、「契約」という概念が有ります。「旧約聖書・新約聖書」ネヘミヤの時は、古い約束の時代でありました。神さまは、イスラエルを共にある者として下さった。そして、信じる民を、カナンの地に住まわせて下さった。神さまと共に。
充分に恵みが与えられ養われたはずでしたが、他の神々に目を。充分に恵まれているのに、欲望を抱くようになった。エジプトから導いて下さった神さまを、忘れてしまった。大きな過ち。
その結果、国は亡び、苦難の中に置かれた。
「それは、起こるべくして起こったのです」(32節)
「私たちは奴隷にされています」36節で、二度も語られている現実。神さまの約束を忘れたわけでは無かった。しかし、背きの事実。罪の中の民は、頑なな民となったのです。目を背けた民。離れた民。
今更、言えない。抗ってきた(つまらない)意地が有るのです。ですが、限界です。神さまとの契約を破った結果。イスラエルが、「受け取らない。」と、約束を破棄した事なのですから。
しかし、現状は?「わたしたちは大いなる苦境の中にあるのです」(37節)つまり、「喉から手が出る程、欲しい」貧すれば貪する。しかし「自業自得」
【ヨハネ黙示録21:8】頑なな民に残されている道は。
「気付いている・悔い改めたい・立ち返りたい。しかし、出来ない。」人は、「頑な」なのです。
それに対して、神さまは、「熱情」であります。愛して愛して愛し尽くされる思いなのです。契約に対して、背く人の頑なさ。それを憐れまれる神の熱情。
人は、神さまとの契約を破った。守れない民を救うために、新しい契約を与えられた。新約聖書。
頑な故に、罪を償う事ができない。出来ない故に、その罪の姿を神の御子は人の姿で現され、償われ、十字架の贖いを与えて下さったのです。