高松教会 村上貴志
ネヘミヤ記 9章16~31節
村高松教会は、7月7日が創立記念日で、今年で115年を迎えます。高松で伝道が開始されてからは、約137年となります。今、ここにある教会は、本質的な存在意義を、貫き通しているでしょうか?家族への伝道・地域への伝道。出来ているのか?出来ていないのか?出来ていないのならば、不十分であるなら、それは、何故なのでしょう。主の御命令に対して、それを守る事の出来ない頑なさを持っていると言う事なのでしょうか?それとも、忘れてしまったのか? 異なる事を選んだというのでしょうか?成果が見えないような気がするからです。
しかし、私たちに何ができるのか?私たちの声は、届かない。何も出来ないと思ってしまう。
ですが、ここに、教会が建ちつづけている。そして、使命は終えましたが、みくに幼稚園があった。いえ、多くの人の思いには、今もなお、みくに幼稚園は、立ち続けているのです。そこに神さまの思いが、神さまの憐れみが、現れ出ているのであります。
ネヘミヤ記には、「憐れみ深く」という言葉が出て来ています。無力感を感じている民を、見守って下さる神さま。道に迷い、茨の道だと思うと、すぐに後戻り。しかし、そのような人を、励まして下さって、行く道を示して下さる神さま。
従わない民を神さまは、造られたのでは無い。
アダムから受け継がれる「神さま間から離れる罪」
憐れみ深い神さまは、その様な民に、「救い」を送って下さった。御子イエス・キリストを、贖いとして。
罪の世界に囚われている私たちを、神の世界に取り戻して下さった。それを伝えるのは、教会の使命・先に救われた者の使命なのです。
憐れみ深く愛して下さる神さまを・十字架の上の御子イエス・キリストを見あげるのを待っておられるのです。